1朱銀とか二分銀がよく使われたのである。
純金の金貨である大判小判などは、庶民は生涯に1度も目にしたことはなかったであろう。
東京には銀座があるが、大阪には金座があったのである。
東京(江戸)の通貨の中心は銀であり、京、上方の関西経済圏は金が中心であった。
ヨーロッパの中世史でも、金と銀が激しく中心貨幣の座を争っていたことが分かる。
幕末にはメキシコ1ドル銀貨が1両の価値を持って取引された。
この時、大量の金がイギリスの策略に遭って計画的に海外に持ち去られ、流出したのである。
銀は今でこそあまり注目されないが、金の絶対量があまりにも少ないからである。
とともに、これまで再三書いてきたとおり、ペーパー・マネー(紙幣紙切れ、預金証書、株券、国債)などの紙切れから、実物資産に移行してゆくからである。
ゆくゆくは、薄く引き延ばした銀のお札が作られ、流通するようになるのではないか。
この銀紙幣は、アルミ箔か何かでコーティングされて強度を生むだろう。
今のような単なる紙の紙幣が、これからも使われ続けるとは限らないのである。
次の世界規模での大恐慌が襲いかかってきた後には、人間(人類)は少しは反省して、際限なく刷り散らかした紙幣や国債が紙切れになるのを恥じて、実物資産に裏打ちきれた通貨制度に戻るだろう。
方式に移行してゆく」と書いてきた。
コモディティ・バスケット通貨体制とは、従来の「金ドル免換」体制のような、とにかく少なくとも各国政府聞においてはドル紙幣と金の免換を死守する、というような通貨体制ではない。
この地上にあまりに少量しか存在しない金だけでは、基軸通貨(ドルとユーロとの信用を保証してゆくことは不可能である。
金本位制(ゴールド・スタンダード)への単純な復帰などは考えられない。
だから「コモディティ・バスケット通貨体制」とは、金以外の他の貴金属や石油、天然ガス、レアメタル(稀少金属)や穀物(農産物)までを含めた多品目の実物を担保にする通貨体制のことである。
だから「多品目基本物資担保(保証)通貨体制」とでも訳さなければならないだろう。
この考えを提唱したのは、シカゴ学派の経済学のS・である。
現在のB政権を支えている主要な経済学者たちも、このコモディティ・バスケット制度への移行に賛成している。
そのような発言が相次いでいる。
本書の前のほうで現在の世界通貨体制は、ドル・金体制が崩壊した後のドル・石油体制であると説明した。
金と石油だけでは、世界の通貨の安定を先々保証できなくなりつつあるのである。
現在のような、お札と国債を、歯止めを失って刷り続けている各国政府の現状は、やがて大きな破綻に直面する。
それは各国の財政担当者たち自身が、よく分かっていることである。
今後の紙幣は実物資産を反映したものでなければならなくなる。
だから、銀を先端技術で薄く引き延ばして、強化した奇妙な銀紙幣がやがて誕生するだろう。
これは、コモディティ・バスケット体制と矛盾するものではない。
銀はこれから値上がりするだろう。
銀は昔、兄弟というテキサスの大物石油業者が、過去に買い占めて失敗した商品である。
ところが現在、世界1の金持ちになった10S社のB・G会長が、密かに大量に買い続けていると言われている。
それから前述したとおり、私の大好きな、アメリカの投資の神様であるW・Pも、銀投資を行なっている。
前にも書いたが、「長期投資こそ投資である」という優れた考え方をしているこの人が、銀を相当に買っているのである。
銀は、案外、狙い目の貴金属投資の対象である。
ここから、金と同格になった石油が、なぜこれほどの重要な物資になったのか歴史的な背景を解き明かす。
石油はただ単に経済の血液やエネルギー資源ではないのである。
私は、ここから「鯨(捕鯨)と幕末のペリー来航と石油とR財閥の始まり」という4つの事柄を、世界史的な出来事として、相互に密接に関連するものとして描ききってみせる。
コモドア(提督、海軍大将、艦隊司令長官)マシュー・カルプレイス・ペリーが、アメリカ合衆国インド洋瞳隊東洋への遠征隊、エクスペディシヨナリー)としての艦隊を率いて日本の浦賀に到達したのは、1853年7月8日(日本暦なら6月3日)のことである。
隻の軍艦を率いて神奈川沖まで来た(本当は品川沖まで出没した。
江戸棋に照準を合わせて1カ月近く、ずるずると東京湾で威嚇行動を取られた後に、遂にベリー艦隊は横浜に上さて、ペリーがアメリカの全権代表として日本に強行突破でやってきた理由は、開固と通商の要求だが、より切実な要求項目は、「外国船打ち払い令」を廃止せよ、というものであった。
当時、日本近海(黒潮海流)には、アメリカからの捕鯨船が何百隻も来ていた。
なぜ、それほどに日本近海にまで、はるばる南米のマゼラン海峡を超えて鯨を捕りに来たのか。
それは、鯨の表皮の油は鯨油)が、当時のヨーロッパと北アメリカにとっての重要な明かり(照明、灯り)だったからだ。
西洋人は鯨の肉を食べるわけではない、西洋社会では鯨油を明かりにした。
燃料と暖房用には石炭であるが、明かり用には鯨の油を使っていたのである。
ちなみに江戸時代、日本の蝋燭は、はゼの木からとるパラフィンから作られていた。
ヨーロッパは何と最近の1950年代まで(日本も同じだが)石炭がずっとエネルギーの主軸であった。
大型の鯨を1頭仕留めれば相当な量の鯨油が取れただろう。
それを樽(パレル)に詰めて持ち帰って蝋燭にして売った。
だから鯨漁をするアメリカ人の漁師たちを保護するために、ペリーは「薪と水を我が国民の捕鯨船に与えよ」と交渉しに来たのである。
少なくとも公式にはそうである。
上海からの薄汚いイギリス人貿易商人たちの暗躍が下関、神戸、横浜で始まるのはこの直後である。
大西洋の鯨は、その前の 世紀に捕り尽くされていたようだ。
それで経済法則(市場原理)に従って、はるばる太平洋にまで多くの捕鯨船が来ていた。
そのため、すでに幕末の日本近海では、急激に鯨が捕れなくなっていた。
鯨の姿が浜のそばまで現われなくなったのだ。
たとえば和歌山県南端の太地町は、古くから「いきな漁」(小船群による集団包囲式の捕鯨漁)で有名な漁港であるが、これらの日本の漁村の勇魚漁が幕末にはどんどん廃れたのである。
だからそれはアメリカの捕鯨船(ホエーラーズ)の仕業である。
さて、ところが、これほど当時の重要な基幹産業だった捕鯨および鯨油製の蝋燭製造業が、1870年代になると、ヨーロッパ、アメリカでばったりと途絶える。
その理由は急激な エネルギー革命 が襲ったからだ。
それが人類の石油オイルの発見である。
日本人が誰も知らないのはここからだ。
ペリーの艦隊遠征は1853年である。
この後、ペリーは役目を果たして1855年にワシントンに帰還している。
それからアメリカで南北戦争(内乱)が起きるまで6年しかない。
南北戦争の勃発は1861年4月 日である。
このとき北軍(連邦政府)のサム相当に鼻、が利いた人物だったようだ。
このドレイクが、石油を史上初めて燃料用に使えるものとして掘削に成功したのだ。
1859年8月幻目、ニューヨーク州の北とオはイオ州に挟まれた、ペンシルベニア州のエリー湖(五大湖のひとつ)のほとりの川でのことである。
だから、人類が石油をエネルギーとして使い始めたのは実に1859年からなのである。
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